島津斉彬

島津斉彬の落胤について

 このページでは島津斉彬に生存した男子の実子が居たことについてを紹介しています。
 ご承知の方も多いと思われますが、一般的に島津斉彬の子供で長命であったものは女子だけだとされています。
 しかし実際は京都の祇園の女性に産ませた男の子がいて、廃藩置県の後も薩摩の家臣たちが影になり、日向になりしながら、その男の子を見守り、また力になりながら、その子は大正年間まで存命していました。
 ここではその実子の人生を中心に、その子の人生に関わった薩摩の家臣や、近江の宮脇家との関係、琵琶湖疎水との関係などについてをスライドで解説していきましょう。

スライド№1;島津斉彬と不二木佐七

スライド№2;宮脇睡仙と一族について

スライド№3;不二木佐七と琵琶湖疎水について

スライド№4;不二木佐七の人脈、遷移、その他

最後に

 このスライドを作成した時点では判っていませんでしたが、宮脇睡仙の養子に来て、宮脇の伏見の分家を継いだ〝宮脇剛三〟は、近江の湖南焼の研究者としても有名なのですが、どうやら彦根の井伊家から養子に来たようです。
 彦根の歴史博物館の学芸員の方に調べていただいたのですが、記録には無いとの事なので、井伊家側では誰かと言う事が判りませんが、宮脇側ではそう伝わっています。
 いずれにせよ、廃藩置県の後の宮脇家の起こした事業等を見ると、井伊家と共同で行われたものが多く、〝宮脇剛三〟が井伊家から来た事もうなずける事だと思えます。